事件

2015年10月9日 at 2:17 AM

ホテルニュージャパン火災の犠牲を広げた横井英樹の生い立ち

愛知県中島郡平和町の次男として生まれ、千一と名づけられた。

「千人に1人の逸材になる」という意味である。

 

元々は貧しくは無かったが、父親が酒に溺れて家財を食いつぶし貧しい生活を余儀なくされた。また父親は千一が勉強している姿も嫌いで、「貧乏人の百姓に勉強など要らない」と教科書や本を破り捨てた。

 

しかし千一は父親の目を盗んで遅刻しても学校に通った。

また放課後には家の野菜を行商して小銭を稼ぎ、暴力を振るわれている母親に美味しいものを食べさせてあげた。

 

 

高等小学校卒業後、11歳の時に上京、英樹に改名。東京日本橋の繊維問屋へ丁稚奉公して営業のノウハウを学び、17歳で独立し「横井商店」を立ち上げ、当時の注目産業だった軍需に関わった。

 

 

終戦後には不動産売買に力を入れ、当時の額で20億の金を稼ぐ。

老舗百貨店・白木屋の経営状態が悪いことをかぎつけると、その株式を買占め、経営権を握れる寸前まで行った。

しかし、経営陣から「どこの馬の骨とわからないものに、うちの経営を任せるわけにはいかない」と言われ、幼少期の貧しい頃のトラウマが爆発し、汚い手を駆使して白木屋の乗っ取りに成功、経営陣を一新する。

横井

 

こうして乗っ取り屋として名声がついた横井は、ホテルニュージャパンの買収にも動き出す。

そして横井がホテルニュージャパンのオーナーになって初めての従業員へのスピーチでは

 

 

「経済は有情より勝る。今年の売上げ目標は60億円。来年は80億円。客をかっぱらってでもがめつくやってくれ。汚いと思うけど、綺麗にやってくれ」

 

 

と平然とのたまわった。

 

横井の経営は徹底的な合理主義で、見える部分のみに美術品や内装など惜しみなく資産を投じ、

当事消防法が改正されて、消防局からスプリンクラーの設置や耐火構造への対応を忠告されていたが無視していた。しかし消防署長自ら勧告にくると、「早速対応いたします」と答えたが、設置したほとんどのスプリンクラーはダミーで水が出ないようになっていた。

 

横井が消防に対して指示したのは、消化器を多く置くことだけだった。

 

 

徹底的な合理経営で、従業員はクビになったり自ら辞めていき数は300人から170人まで落ちたが、業務内容は変わらず、一人一人の負担は増し消防訓練には手が回っていなかった。

警備員も、本来の業務の警備ではなく、地下駐車場を有料にしてその料金徴収係に回した。

 

 

こうして、1982年2月8日にホテルニュージャパン火災が発生した際も、大事にしては社長に怒られると、従業員は火災が発生した旨を、個々の部屋にノックだけで知らせたに過ぎなかった。

 

また横井は客よりも、真っ先にホテル内の美術品の避難に従業員を当てるよう指示した。

消防隊員による救助活動中も押し黙っているだけで、何も支持しなかった。

 

 

123人の消防車、649人の消防隊員・救助担当が出動し、被害総額は10億円以上。

60人が救助され、34人が怪我。33人が死亡し、そのうち13人は転落死だった。

 

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